素通り通信

愉快な記録です。

10年経っても変わらず、老いだけがある

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

 

会社員兼ミュージシャン、肩書は10年前とは変わらない。

ここ10年のそれ以外の変化は割とある、あの頃生活の中心にいた愛犬は天国に旅立ち、離婚を経験し、精神疾患になり、仕事も何度も変わり、神奈川に住まなくなり、さらに貧乏になった。だいぶ変わった。

 

精神を病んでしまったので、脳が壊れてしまった。

本来やれていたことの殆どができなくなった。

自分のパフォーマンスを発揮できないから仕事もできない。車の運転もできない。基本的な生活ができない。良い音楽が作れない。楽しいライブもできない。ミュージシャンとして必要とされない。

人格も変わり、体型も体質も変わり、おそらく生きているのが地獄のようにつらい。

そして老いた。老いだけがここにある。

 

10年間で知り合った人たちは、その前、本来のわたしを、知らない。

 

10年より前からの友人知人は皆、家庭を持ったり立派な仕事をしたりしていて

ライフステージが変わってしまい、以前のようなスタンスで仲良くできない感じになった。

 

ともかく孤独である。

ただ、10年前ならともかく、こんなふうになった自分には、孤独を埋める価値すらないと思うので

ただただ耐えている。

 

10年後を考える。

10年後はおそらくこの世にはいない。

どことなく体調が悪くても、精神の薬が切れても、歯の詰め物がいくつも外れても、病院などには行かなくなった。助かりたくないからだ。

病院というのは助かりたい人が行くところである。

 

なにもかも変わってしまったのだが、離婚も精神病も貧乏もなにもかも自業自得であるので

そして修正することもできないので

みじめに孤独に生きて、10年以内にはなんらかの要因で死ぬ。

 

みっともない人生だったが、自分の意思で生まれてきたわけではないので

これも仕方がないのだと思う。

 

あのまま壊れずに生きていたら、思い描いていたように家庭を持ち続けていたら、同じような仕事を続けていられたら、楽しいミュージシャンのままでいられたなら、きっと素敵な10年間だったろうし、この先の10年20年も生きていられたのだと思う。

 

なにもない自分。

 

唯一変わらなかったことは、生きている、ということであるか。

それくらいしか見つけられないくらい、なにもかもが変わってしまった。

 

10年があっという間だったのかもしれない。

だとしたら次の10年もあっという間で、そしてこの世から消えることができる。

 

毎日は好き勝手にすぎていく、まあまあ楽しいこともある。

でも常に「変わってしまった自分」が惨めである。

 

おそらくこのテーマで書いている人は、皆、子供が成長したとかライフステージが変わったとか、何か華々しいことを書いていると思う。

いくつか読んだがみじめになるだけだった。

同じような気持ちでいる人がこれを読んで、ちょっと救われた気になったら幸いである。

おわり

新社会人になるみなさんへというか新社会人にになったときの思い出(20世紀を語るババア)

くつしたです。

 

テレビで「金髪OL22年生」って紹介された変な人が過去の話をします。

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変な人ですね。

 

大学を出て社会人になったのは、1999年の春のことでした。

すごい話ですね、20世紀ですよ。

私は一浪してそれとなく小規模な国公立大学に進み、登校せずに酒ばかり飲んで堕落した大学生活を送っていたのですが

周囲の流れに乗って就職活動というものをやってみました。

当時は葉書を書いて資料請求してエントリーするっていうシステムでした(インターネット?なにそれ?)よくわからんが周囲の人たちが頭は悪いけど意識は高い、みたいな人たちだったので、みんな盛んに就活してまして

私もやらなきゃいけないのかなという気持ちでおりまして。

 

よく「就活しなかった」ことを自慢する大人っているじゃないですか。レールに乗りたくなかったとかリクルートスーツが嫌だったとか、そんな感じの論調で。当時はいたんですよバブルの名残が上の世代にあったので。

じゃあ公務員とか国家資格とか取ってるかっていうとそうでもなく、パッとしないフリーターみたいな人。

個人的にそこってアピールする箇所じゃないと思ってたんですよね、そしたら「高校受験しなかった」とかのほうが希少性は高いのかと。

大学まで行っといてレールの話はしないほうがいい。

そして私の世代は就職氷河期でございまして、(今になって社会問題になってる世代です。)異常に大変だ大変だという感じが出てました。

なんというか、そういう時代であるなら、就職活動をやっといたほうが

おそらく経験としてプラスになるのでは。

 

ということで、流れに乗って就活をはじめたわけです。

 

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ちょうど就活の頃、今の姿が想像できないころの写真がこちらになります。イケイケ女子大生ですね。しかも古い。

じつは若干モテてましたが人の好意を信じない人だったので損をしてたようです。

 

この写真は祖母が米寿になったってんでパーティーしたとき家族が揃ったからってんで親戚の誰かが撮った写真です。ん?米寿だっけ?

祖母はその後もずっと元気で102歳?103歳?くらいまで生きました、長寿素晴らしい。

その祖母のお通夜に行った時の私の写真が以下になります。

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我ながらひどい。変化しすぎではないですか。たしか前の写真と同じスーツなんですよ。すべてがひどい。

これは前月?前々月?くらいに脳のカテーテルでくつしたさん、入院しまして、何かあったら頭を開く手術になるかもという理由で人生何度目かの坊主にしていたら、伸びかけのタイミングで祖母が亡くなってしまいまして、、、、(この話は長くなるので別のところで。)

 

で、就活の話に戻すと

ちょっとやってみたら、当時いちばん行きたかった会社から内定が出てしまいました。

氷河期になんという幸運。

 

ぶっちゃけてしまうと、私の就職活動というのは

二日酔いだからとか、なんかだるいからとかいう理由で会社説明会などのいくべきところに行かなかったり、面接官がわけわからん感じだった会社は、選考進んでも、その後居留守使って連絡を断ってみたり、やりたい放題のむちゃくちゃでした。

そう、氷河期なのに「選ぶ側」をやっていたのです。

もうほんとに今から考えるとひどい。

行きたいなーという希望がすごい会社しか行かなかったし、リゾート地で2泊3日(だったかどうか記憶は定かではない。ただ、テニスをさせられて疲れたのは覚えている。)の合宿審査みたいな面白そうなやつは行ってたし、なにより就職活動を言い訳にして授業さぼりまくれたのがよかった。

だいぶひどい話ですが、なんとなく私は行きたいところに行けるという変な自信がありました。

 

それでまあ第一志望に内定をいただいたわけですが、内定出た最終面接で話したこと、内定の言葉いただいた瞬間とかは今でも鮮明に思い出せます。

くつしたさんは氷河期にさっさと内定取れた幸運の人になりました。

5月くらいだったかな。

 

で、その新卒で入った会社は学習塾で、わたくしは専任講師になりました。

 

今の私を見ている人は、くつしたさんって先生に向いてるとか思うでしょう、実は向いてなかったんですよ。

人前で話すの苦手だし、勉強できなかったから教えるのも得意ではなかった。

でも会社は手厚くて、そんな私でも立派な先生をやれるようにって入社半年前から研修が何度もありました。

極め付けは3月はじめの研修合宿。

その最終日に配属先発表になり、そのまま3月後半から「春期講習」に投入されたわけで

大学の卒業式とかやる前にくつしたさんはフル稼働で社会に投入されてしまっておりました。

卒業式の日だけは休みがもらえたけど前の日も次の日も仕事です。

そんなわけで「学生気分を残したまま4月1日から社会人だウォーー!」という経験は、しておりません。

それどころか、内定が出ていたものの学業をサボりすぎていて絶対的に単位が足りておらず、卒業できるかどうか最後の最後まで確定していない、これまたひどい状況でした。

卒業認定に落ちて掲示板に名前貼られたんですよ。

 

しかし、うちの大学には卒業認定に「救済措置」的なものがありまして

それは最終の取得単位確定時に「授業一コマ」だけ足りない場合は当該授業の教授から直接指導を受けて単位認定を受ければ卒業できます、というものでした。

私は幸運にもその「一コマ」で足りない状態でして

「一コマ」をクリアして卒業もしてしまいました。

ちなみにこの救済措置はうちの代が最後だった。ありえない幸運。

 

運の良い「新社会人」としてスタートダッシュを決めまして

その後3年間塾で死ぬほど鍛えられ、その後いろいろと流転の生活ですが、今現在はたいへん良い会社で好きな分野の仕事に没頭できています。

 

そんな就活時代とかの過去を知っている人のラジオ番組にゲスト出演することになりました。

 

横浜は本牧の「マリンFM」という局で(リスラジというアプリで、どこでも聴けます)

4/5からスタートする「白石清裕のやかんラジオ」という番組に4/19と26の2回ゲスト出演です。

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収録はだいぶ前に終わっておりますが

くつしたさんの学生時代から知っている人の番組ですので

 

なんか凄いパフォーマー「くつしたさん」として

今までいろんなメディアで扱われていた真面目な内容とはぜんぜん違う、攻めた方向性で

超絶にひどい面白い話をしておりますので

いまから「リスラジ」をインストールして

お待ちいただけたらと思います。

 

どこにも明かしてない黒歴史白歴史黄金歴史闇歴史を四半世紀知り合いの人に炙り出されるふごいことになってますので

みなさん聞いていただきたいです!

 

ちなみに3月から仕事してたので、入社式の記憶はありません!!!!

 

じゃあねー

 

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(ネタバレなし)エヴァシリーズ、完結してしまった。

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みんな、みにいっていると思いますが、シンエヴァ、初日の朝7時の映画館に行きました。

まさか席取れるとは思ってなくて、争奪戦という名のサーバー攻撃に参加しまして

最後の3席のひとつに滑りこみました。

 

渋谷のtohoとか、めっちゃ人が来るところにしたのは、今の会社がそこから徒歩3分のところにあるからです。

9時50分まで映画観てて、10時から始業、間に合いますよね。

 

大学に入った年にエヴァのテレビ放映が始まりました。

当時の私は、1年間テレビなしの予備校の寮生活明けで

実家にいた頃もテレビを見てなかったので

食いついていました。

その後の深夜のダイジェスト、みんなで集まってみたり、ビデオ借りて集まって上映会したり、映画になった時はみんなで行って旧劇で落胆したり

新劇で興奮、Qで寝込む。

 

思い出を語るには想いが大きすぎて

でも、今回ほんとに

終わったんだなって喪失感がすごくて

なにしろ人生の半分以上を「エヴァンゲリオンの謎解き」で生きてきた自分なので

終わってしまったという人生の穴が。

青春がやっと終わったのだろうなぁ。

エヴァの結末を気にしないでよい人生が始まってしまいました。

 

ガンダムエヴァ、私は、パソコンが得意ではあったけど、数学も点数取れてたけど、大学は西洋哲学を学んでいたようなド文系の人でして

それでも女性エンジニア的なものに憧れていたのは、ガンダムとかエヴァに出てる女性エンジニアがかっこよかったからです。

ホワイトベースをガチで操るミライさんとか、めっちゃかっこいいパソコンの達人、リッちゃんとか。

それでエヴァではPanasonicのパソコン結構出てきて、仕事選ぶ時も「レッツノートが支給される」とか「タフブックが支給される」とかいう条件で飛びついたりして。

紆余曲折で富士通の派遣に潜り込んだときは、エンジニアと少し離れた業務で

シンゴジラのとき「主人公の使うパソコンを選ぶ」というポジションになりまして

私が選んだパソコンを矢口が使ってる!!!ってんで、取材受けたり、ハマりすぎて沼すぎて映画館に通い詰めたりして。

シンゴジラ、、、庵野、、、さん、、

 

音楽については、ミサトさんに惚れすぎて、朝からエビスを飲む学生生活の中「葛城バレエ団」というバンドを組みました。私の曲とアレンジをやるバンドです。ただバンド名を名乗りたかった。かっこいい大人のミサトさんになりたかった。「こんばんわ葛城バレエ団です」って言いたかった。言えた。そしてそのまま、葛城バレエ団が終わり「くつした」をはじめて

今もミュージシャンでいます。テレビにも出ちゃった。

 

離婚のタイミングでシンゴジラの狂騒の中にいたので、蒲田に引っ越してきてしまいました。

 

半生、このように

庵野さんに振り回されておりましたが

 

結局、たぶん、かなり知識と実績のある女性エンジニアになれました。たぶん。

ネルフ?ヴィレ?に呼ばれても、リッちゃんの右腕になれるとおもいます。

コーディングはやいし。たぶん。

大事なことは.すべて、エヴァから教わったんだよな。

 

そして3月8日。朝7時。壮観。300人の「大きなお友達」で満席の渋谷の映画館。

雨の日の、寒い朝

ずっとこの寒さや雨や空気感を覚えてるんだろうなって思いました。

旧劇のときのそれがそうだったように。

 

そして、シンエヴァを見てから出社して、何をしてても涙ぐんでしまいそうなほどの気持ちで

でも、そう、金髪ベリーショートの敏腕エンジニア、私はリツコ、という気持ちで頑張れて

会社を出て渋谷の街を歩いていたらぼろぼろに泣けてきてしまいました。

 

ほんとに終わっちゃったんだ、、、、

この結末を見れずに先立ってしまった友人知人たち、、、

彼らの分も、生きている。

教えてあげたいのに、みんなもう、いない。

なんだよなぁ、これの感想戦トークしたかったよ、clubhouseとかでさ!

死ぬなよー。

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これからもしぶとく生きて、色々なものを見て、見届けて、いきたいなと思いました。

 

ほんっっっとにアスカ最高。

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積みプラモ増やしちゃった。

 

おわりです。

 

2020年の買ってよかったもの

お題「#買って良かった2020

 

みんなそうだと思いますが2020は未曾有の世界的病魔で経験した事がない一年になりました。

あまり派手なものを買ってないのですが、よかったものを紹介します。ならべてますが思い付いた順に書いてみます。

 

1:キックボード

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コロナ禍前?だったか、歩くのがだるいという理由で買いました。なぜかランボルギーニのキックボードです。一万円してないのでいい買い物でした。

歩くのがだるい?なら自転車乗ればいいじゃん、という話のかもしれませんが

都内だと自転車はそれはそれで気軽にそのへんに停車しておけない、みたいな事情もありまして

キックボードなら畳んで肩から下げとけばそれはそれで持ち歩ける、とか、押して歩くのも自転車ほど負担ではないので

行った先で飲酒しても押したり持ったりして歩いて帰れるとか、そういうこと考えて買ったわけです。

実際のところ最初はなかなか乗るのがヘタクソで、徒歩の小学生に追い抜かれたりしてたし、近所の古希直前の紳士にちょっと貸したらガンガン乗りこなしてて、自分やべえなってなったものの

わたしはデブなのに体幹が強いせいか、そこそこいけるようになりました。

最近また小学生とかには流行しているのかわかりませんが、子供用よりパワーあるので

子供用キックボードを必死に運転する小学生を追い抜いていい気になったこともありました。

ちょっと速く移動できるのと、乗ってると結構足腰疲れるので

たぶん運動になってんだろうなーという感じです。

畳めるのは便利なんですが、畳んでしまうと元に戻すのが割と億劫になるので

いつでも乗れる状態にしておくのが良い運用方法です。

※ローラースケートとスケボーは小さい頃一応経験しています。

 

 

2:グリーンバック

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5月のコロナ禍ど真ん中で就活を始めたのですが、ぜんぶリモート面接で

さすがに背景を整えたくなった、というのと

リモート飲み会も結構な頻度でやってたので

面白いなこれは、と、買ってみました。

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で、結局のところ、わたくしグリーンバック届く前に面接受けた会社に進んだんですけどね。

で、結局そのおかげでクロマキー合成のやり方がわかったので

動画編集で役に立ったという。

あ、↓これ見てください

cat magic - YouTube

 

3:ゲーミングヘッドセット

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で、まあ、リモートワークで捗ったのはヘッドセットなのですね。うちは線路の前なので仕事の会議の時は音声問題がわりとありまして

で、みんながやってる「昔のiPhoneの付属品」を会社から支給されたものの

どうしても耳のサイズが合わないので仕事のときにストレスを抱えるようになり

Amazonでめっちゃ安く、かつ、光るやつを購入。わたしは赤ければなんでも許す体質にある。

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このデザインのヘッドホンで仕事に挑むことに抵抗がなかったのは当時の会社のリモート会議、全部音声のみだったからです。

これは耳を完全に覆ってくれるので外の騒音が気にならないのと、多分安くてホールドが甘いから疲れないのも結構いいです。見た目はまあ、、、、

結局その後転職して、会社からヘッドセットを支給されますが

このヘッドセットが気に入りすぎて会社に持ち込んで使ってます。もはや恥ずかしくもありません。

で、会社に赤いやつを置きっぱなしにして

家ではどうなったかというと

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さらにデザインの厨二病感が増したやつを使うようになりました。

これはほしい物リストに突っ込んでいたら誕生日にいただいたものです。

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青が基本になりましたが、光るところがレインボーに光るのと

マイクの角度の自由度が増したので、ちょっと気に入ってます。

2020年の1年間で、おそらくリモート会議だ飲み会だという機会がめっちゃみなさん増えたと思います

結構ヘッドセットなくても大丈夫なわけですが

できれば使ったほうが自分も相手も割と良いと思いますよ。

まあ私は週末ミュージシャンで、オーディオインターフェイスも結構いいやつ持ってるし

マイクもヘッドホンも現場仕様のやつあるので、極めようとすれば極められますが、、、

会議とか飲み会ならこれでいいです。

ちなみに、わたくし実は家にマイクスタンドがフレディー仕様のしかなくて

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これは固定ができないんです、、、

 

4:干し椎茸1kg

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こんなに量が多いと思わなかった

 

5:ホットサンドメーカー

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購入に至った経緯は、楽器にしてみたかった

という頭がおかしい感じだったんですが

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実際わりとTwitterとかで流行していたため、料理に使ってみまして

動画とかも撮ってみたら

TikTokでプチバズりしまして

その動画をYouTubeに適当に載せておいたら下半期に再生数が伸びまくり

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結果として2020年に一万再生動画を3本爆誕させてしまいました。

で、動画にしてなくてもかなり活躍してくれました。これで焼いたらどの料理も失敗しない説がある。

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餅もうまいぞ。

で、周りに溝がある変則タイプを使っているため今年は普通のやつ欲しいなーと思ってます。

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餅うまいつうまいっす

 

6:ガスバーナー

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ホットサンドメーカーを買って料理動画がバズる前に伏線がありまして

ガスバーナーを買っていろんなものを炙ってました。

パスタとかサーモンとか。

最終的に頭おかしくなってガスバーナーは楽器になるのでは?という

危険なとこまで進みましたが、自制心が働いて初夏以降は乱用せずやってます。

で、2020年は動画をめっちゃ作った一年だったんですが発端がガスバーナー買っていろいろ炙り始めたのを録画してTwitterにあげてたあたりで

これがなければホットサンドメーカー動画もなかったんだろうなーと思います。

 

7:黒木ちひろ「雫」

雫

どれほどに、救われたか。

 

8:フジミ模型のプラモデル

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最高。

 

珍しく楽器っぽいのないですが

それは今年がんばろう。

 

お題「#買って良かった2020

おわりです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年末、3年前の自分へ

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体重は増えます

ダーツはうまくなりません

何度か死にかけますが生きています

想像力の範疇を超えた世界が来ます

コロナは飲むものではなくなります

なぜかアコーディオンにはまります

友達が増えます

東京暮らしはそれなりに楽しいです

コンタクトレンズするようになります

一人暮らしに戻ります

良いことも悪いこともあります

3年間でフリーランス、無職、バイト、派遣社員、正社員、すべて経験します

亀は元気に巨大化します

Queenが映画で大人気になります

半沢直樹の続編を見れます

動画編集が若干うまくなります

サブスクで音源配信をはじめます

なぜかポーランドで再生されます

カラオケでOL10年生が歌えるようになります

なぜか身長が伸びます

ど金髪になります

何度か断捨離してますが部屋は汚いです

 

 

再婚はしていません

再婚はしていません

再婚はしていません

 

 

再婚はしていません。

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怪我はありますが、大きな病気も入院もありません。

 

とりあえずダラダラ生きてください。

 

で、3年前の自分、その夢は叶います。

311から8年ですか。

気づいたら3月11日を迎えていて、あの震災から8年も経過していた。

 

2011年のその日、わたしが仕事していた飯田橋の高層階はものすごく揺れた。割と地震には慣れている茨城県南部の出身だが経験したことがないくらい揺れていて、高層階ってこんなに揺れるもんなのかーと揺れ始めはバカなこと思っていたけど、それはそれはあまりにも長く揺れすぎていて建物からバキバキ音がして、上司が窓際から離れてと言っていて、ただ事じゃなさそうだと検索してみたらこの地震は東北で起きているとすぐわかって

ちょうどその日、隣の席の同僚が仙台に出張中だったので慌ててメールしたのであった。

その後フロアにあるテレビを誰かがつけて、惨状はリアルタイムに観ていて

仙台出張中の同僚は連絡とれて、無事で

そして私は電車も止まって結局家には帰れなくて会社に泊まって、毛布とか非常食が支給されて、自分自身は東北地方出身ではないのだが当時の義理の両親が石巻出身で当時の親戚もみんな石巻に住んでるから色々心配で眠れなかった。

でも翌朝の朝焼けが妙に綺麗だったのを覚えている。思わず写真を撮ったくらいに朝が来たのが嬉しかった。

左端のスカイツリー、当時はまだ建設中だった。

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なんとか家に帰ったら、横浜戸塚の我が家は屋根が倒壊していた。

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庭でひとりぼっちだった犬はどれだけの恐怖を味わったのだろうか、ブロック塀を乗り越えて隣の家の敷地に逃げていた。

元夫は車通勤だったので夜には帰宅できたが、その時間まで、隣の家は犬仲間の家だったので、水を飲ませてもらったり、優しくしてもらっていたそうだ。停電などしていたのに有難い。

ブロック塀に爪痕が残っていた。

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動物は人間ほど都合よく物事を忘れたりできないから、そのあと地震が来るたびいつも静かに震えて怯えていた。

少しでも揺れを感じたら犬のそばに行くようにしていたのだけれど、震災から亡くなるまでの6年間、ずっと恐怖の記憶から逃れられなかったんだろうな。

賢くて優しい犬だったから。

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本当に本当に怖い思いをさせてごめん、今になっても、あの量の屋根瓦が揺れの中落ちてくるさまを想像してしまうと泣けてくるほどに、申し訳ない思いでいっぱいだ。

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仙台に出張してた同僚はしばらく帰ってこれなくて、元親戚はほとんど無事だったけど津波で家を失った人もいたし命を落とした人もいた。

 

震災後、仕事はしばらく自宅待機になり計画停電も経験した。壊れた屋根から雨漏りしたり、仕事が再開しても電車が間引き運転してたり、余震がたくさんあったり、何だかんだと日常生活が普通に戻るまで長かった。

震源から遠く離れた横浜にいたが、屋根の件と当時の親戚の件もあり、近所に住んでいる友人知人よりは被災の当事者に少し近い立場にいたのかもしれない。

もう結婚して何年も経っていて子供がいないことを揶揄する人もほとんどいなくなってた時期だったのだが、震災を経て、なんとなく子孫は残すべきなのかな、と、思いはじめて、翌年くらいから子供を作る方向に考えがシフトしていた。人事異動で飯田橋に行かなくなったので都内の満員電車とは縁遠くなり、バンドも辞めて、妊娠はすれど出産に至らずを繰り返し、致命的な病気の疑いで脳にカテーテルを入れる羽目になり死を突きつけられ(誤診だったが)、震災後も大事な人の死を何度か経験している。

私はその後色々あって精神を病んだせいか仕事を点々とするようになり

犬は急病で亡くなり、そして離婚して私は家族を失った。横浜からは離れて東京に移り住んだ。

ひとりぼっちだ。

気づいたらだいぶ年を取っていて、もう自分の子供をこの世に残すことは不可能な年齢になりつつあり、おそらく再婚もできない。

絶対的な孤独しかここにはない。

それでも、津波に飲まれた人たちの絶望感を思うと、もうこの世にはいない知人たちのことを思うと、なんとか、しっかり生きて行かなくちゃいけなぁなぁとぼんやり思う。

 

それにしても自分はクズみたいな毎日を過ごしていて、自堕落でどうしようもない。しかも若さも失われてきている。

この8年、一体何をやっていたんだろうか。

こうやって絶対的な孤独が来たのも自分がクズだからなのは明らかなのだけれど

8年前の今頃は東北のサーバーに必死でpingを打って疎通確認したり、まじめに仕事していたのだった。今の自分が不真面目ってわけではないのだけれど8年前はもっと必死だった。あの頃の自分はどこに行ってしまったんだろうか。

 

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今夜の月は綺麗だった。

 

話は震災のさらに何年も前に遡るが、新卒で入って3年働いた会社を辞めて、実家に帰って、いろんなきっかけで再就職することになり茨城県神栖市というところに移り住んだ。当時は神栖町だった。

知り合いが誰もいない、電車も走ってないような僻地にひとりぼっちで暮らして新しい仕事をしていた。

海が近い工業地域で、地平線が見えるようなどこまでも続く平野が広がっていて、たいした収入も得られなかったので、ちまちま自炊して生きていた。

今の状況に少し似ている。

その「神栖市」という地域は、茨城県の最南端であり、東北ではないけれど311の震災で津波液状化で結構な被害に遭っていた。サッカーの鹿島アントラーズのスタジアムが被害を受けたニュースは流れていたが、あの近くだ。

神栖の被害状況はあまり報道されてなくて、ネットで調べて情報を得て、なんというか、2年くらいしか住んでなかったけど、知ってる場所が被災しているのでイメージは濃かった。

 

いつか神栖にまた行かなきゃ、とか思ったり、会社とかで東北復興のボランティア募集があると行かなきゃと思ったり、そうでなくても当時は親戚がいたから石巻に行かなきゃと思ったり、全部思ってるだけで何もやれないまま8年が過ぎてしまった。元旦那は親戚の件もあり何度も現地に行ってたんだから、ついていく選択肢はあったはずだったが。

被災の当事者に近かったはずなのに、何も行動に移せなかった自分は本当にダメだなぁと思う。

その後も日本で世界で自然災害が起きていて、東京で大地震が起こる確率は高いらしくて

いつかくるその日のために備えておくとか、そういったことはしているのだけれど

ダメでクズな自分が生き延びてしまって申し訳ないという気持ちをずっと抱えていたが

とにかく生きていられるという事実に感謝するしかなくて

そしてせめて近しい関係の人たちのことは大事にして、みんな幸せになって欲しいと

そんなことを今日は考えていた。

 

311のことは、忘れないようにとメディアとか誰かが言っていると思うけど

先述のように細かく今でも覚えていて、たぶん忘れることはないでしょう。

8年という時間は短いようで長く、そして軽くなくて重くて

そういえば平成も終わっちゃうし、きっとあと8年もすぐ経過するんだろうと思う。

 

その頃の自分はどうなっているのか。

ダメでクズな自分、少しでも成長できていたらいいのだが。

 

会社で特に黙祷とかありませんでしたが、その時間は目を閉じました。

 

おわり

法事で歌うってヤバくないですか

3月2日は後輩とその親御さんの法事で弾き語りライブをしてきました。

後輩が亡くなったのは2000年の話でもう19年も経つのだが毎年みんなで集まって親御さんと飲んで近況報告をして、みたいな同窓会的な集まりになっており、彼女の世代中心ですが、自分もその後輩からものすごく慕われていたのもあり、毎回呼ばれて行ける限り毎年行っていたし、結婚してからは元旦那もなぜか毎年ついてきて、すっかり受け入れられておりまして、そして離婚して去年は「なんかヤバイな」と思いながらも単独参加。

 

もう後輩世代も40代突入ですよ。みんな結婚して家庭持って子供2人も3人もいたり、ちゃんとしてマイホームなんか建てちゃって、法事にもお子さん連れてきて、そのお子様も私の身長に並ぶくらい成長!と、時が流れているわけですが

特に離婚後のこの1年間の私って四十路でバツイチで老けて全身のあらゆるところの毛が白くなり、離婚のショックで痩せるどころか太るし、ファッションセンスもひどく、モヒカンとかの変な髪型で、スカジャンとか着て出勤しちゃうアホなんですよ。結局いま普通に就職してますが、去年はバイトをクビになったりしてまして。

で、この19年、結婚できたけど家庭?は守れず離婚、脳にカテーテル入れられるし、子供もできなかったし、もう出産できる年齢リミット過ぎたし、離婚の勢いで東京さ行くで〜と根性だけで大田区に引っ越して線路沿いの変な安い物件に住んでて、婚活もやってみたけどままならず、カネもないのに食費削っても酒は飲むとかバカで、学生みたいに朝まで飲んだり記憶なくして失敗したり国際ロマンス詐欺の相手してワイドショーデビューしたり、同居人は東京卒業して大自然に飛び出していきまして、ひとりぼっち。好きな人はいますけど「好きってなんだろう」と根源的な疑問が浮かび存在の意味とか考え出して、もうずっと片思いでいい!!人として成長したい!!でも結局呑んだくれてクズな生活。やまない偏頭痛。

もう散々なんですよ。

で、結局何にもなれてないクズなのに肩書きだけは増える謎現象は起きるし、貧乏すぎて水筒に水道水を入れて会社に持っていくような生活で、精神病からは脱却したものの、モテないカネない生きてる価値ももはや意味もない、音楽だけは首の皮一枚で続けているけど、あ、亀は飼ってますから守るものはありますけど

ド底辺といっても過言でもない、そんな状態でございますが

今年は歌ってくださいーと幹事の後輩から連絡いただいて

そうかそういうことになっているのか、思えば現役でバリバリ音楽続けてるやつはもはや殆どいない。私が歌えばいいのなら。

まあ、あいつGLAY好きだったし、わたしは佐久間さんとも仲良くしてたし、なんかやるしかないなーとOKした、のですけど

ノリでなにも考えずに承諾してしまったことにあとから気がついてしまい、しばし途方にくれておりました。

プレッシャーたるもの半端ない。

まあ、私はギターが一本あればどこでもライブできるけど「そつなくこなす」ステージましてや法事に合うスタイルでないのは致命的に明らかで

なにを歌えばよいのやら。

涙そうそう」とかカバーすればよさそうだが、わたしにそれを求めてる人はいない。

そして、お子様たちもいる前で「故人と残されたこちら側の我々」が納得できる何かができるのだろうか。

あっ、盛り上げたいならOL10年生をやればいいのかな?あれは佐久間さんもブログでダイレクトに褒めてくれてたし、カラオケ入ってるし、どこでやっても大合唱を勝ち取る!!!!いける!!!

というところで「会場のカラオケマシンが故障中」という泣ける連絡をいただき、お、おう、やっぱギター弾くんかい。などと。

 

後輩が亡くなってからの一年はご両親と色々会う機会も多く、その頃「あの子は地下鉄が好きじゃなかったのよ」とお母様に聞いたことがありました。

そのエピソードを歌にしたのが「無題ドキュメント」という曲です。

この曲は私も編成によってアレンジを毎回変えてますが

 

じつは、、、色んな人にカバーされてます。

みんな凄腕。

これとか↑やべえ。鉄塔登っとる。

 

もうこれらの動画流せばよいのでは、、、、?

 

いやいや、それはいかんいかん、生演奏しないといけない、、、、、と、追い詰められていたところ

じつはわたくし一周忌の時にもライブをしていたことが判明しました。18年前?

そうそう亡くなった時にCD作ったんだけど新曲入れたんっすよね。

その曲やったんですけど

一周忌の時点ではくつした始めてなかったので歌うという発想はなく、レコーディングで歌ってくれたスーパーボーカリストの白石さんに歌ってもらって、涙涙のステージをやりました。私?私はギターひいてました隣で。

そんなことを思い出してみたものの、果たしてなにをやるべきか分からなくなり、とりあえず昔やってた曲をやろうー!と、大昔の学祭のビデオ(VHS)などを見返して「あいつがいつも最前列で見てくれて好きだった曲」をサルベージして、本当は別の人が歌ってる曲だったけど死ぬほど練習したら自分のモノになってきたのでやってみました。

できた。天才か。

この状況でマイクもなにもなしに、立派にやれるんだな私は。

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で、盛り上がってるっぽかったので、いつもやってる「哺乳類」という「おっぱいおっぱいおっぱいおっぱい」と繰り返すだけの歌をついでにやったら

大爆笑を得られたのでした。すごい。

法事で大爆笑取れる人材は、そんなにいないのでは?

というか不謹慎ながら、故人2人は喜んでると思います。それでいいのだ。

当日朝、プレッシャーから逃れるために元気の素を飲みました

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で、ライブのことしか頭になかったのですが、そもそも見た目が不謹慎なことに気がつき

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自撮りしたらすごかった。これから法事には見えません。そりゃそう。

そんな感じで生きてる先輩です。

おそらく来年も生きてます。

 

法事の後にみんなでカラオケ行ったらジョイサウンドの店でして

ちゃっかりOL10年生キメておきました。

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もはや、彼女の倍くらい生きてきてしまいまして、ど底辺を彷徨っているけれど

やるべき時やるべき事を全力でやれたのはスターの証でしょう。ちょっとは自信持てそうです。

 

あ、結局無題ドキュメントやってない、、

 

ということで法事で歌うという稀有な体験をしたので記録しておきました。

私は結婚式でも歌うことありますが、殆どの持ち歌が暗い歌詞なのであまりオリジナルやるべきではない感じ、なのにカバーを求めてもらえないので、OL10年生かおっぱいおっぱいになりますが、それでもよければぜひ披露宴にお誘いくださいませ。ほんとか。