素通り通信

愉快な記録です。

311から8年ですか。

気づいたら3月11日を迎えていて、あの震災から8年も経過していた。

 

2011年のその日、わたしが仕事していた飯田橋の高層階はものすごく揺れた。割と地震には慣れている茨城県南部の出身だが経験したことがないくらい揺れていて、高層階ってこんなに揺れるもんなのかーと揺れ始めはバカなこと思っていたけど、それはそれはあまりにも長く揺れすぎていて建物からバキバキ音がして、上司が窓際から離れてと言っていて、ただ事じゃなさそうだと検索してみたらこの地震は東北で起きているとすぐわかって

ちょうどその日、隣の席の同僚が仙台に出張中だったので慌ててメールしたのであった。

その後フロアにあるテレビを誰かがつけて、惨状はリアルタイムに観ていて

仙台出張中の同僚は連絡とれて、無事で

そして私は電車も止まって結局家には帰れなくて会社に泊まって、毛布とか非常食が支給されて、自分自身は東北地方出身ではないのだが当時の義理の両親が石巻出身で当時の親戚もみんな石巻に住んでるから色々心配で眠れなかった。

でも翌朝の朝焼けが妙に綺麗だったのを覚えている。思わず写真を撮ったくらいに朝が来たのが嬉しかった。

左端のスカイツリー、当時はまだ建設中だった。

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なんとか家に帰ったら、横浜戸塚の我が家は屋根が倒壊していた。

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庭でひとりぼっちだった犬はどれだけの恐怖を味わったのだろうか、ブロック塀を乗り越えて隣の家の敷地に逃げていた。

元夫は車通勤だったので夜には帰宅できたが、その時間まで、隣の家は犬仲間の家だったので、水を飲ませてもらったり、優しくしてもらっていたそうだ。停電などしていたのに有難い。

ブロック塀に爪痕が残っていた。

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動物は人間ほど都合よく物事を忘れたりできないから、そのあと地震が来るたびいつも静かに震えて怯えていた。

少しでも揺れを感じたら犬のそばに行くようにしていたのだけれど、震災から亡くなるまでの6年間、ずっと恐怖の記憶から逃れられなかったんだろうな。

賢くて優しい犬だったから。

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本当に本当に怖い思いをさせてごめん、今になっても、あの量の屋根瓦が揺れの中落ちてくるさまを想像してしまうと泣けてくるほどに、申し訳ない思いでいっぱいだ。

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仙台に出張してた同僚はしばらく帰ってこれなくて、元親戚はほとんど無事だったけど津波で家を失った人もいたし命を落とした人もいた。

 

震災後、仕事はしばらく自宅待機になり計画停電も経験した。壊れた屋根から雨漏りしたり、仕事が再開しても電車が間引き運転してたり、余震がたくさんあったり、何だかんだと日常生活が普通に戻るまで長かった。

震源から遠く離れた横浜にいたが、屋根の件と当時の親戚の件もあり、近所に住んでいる友人知人よりは被災の当事者に少し近い立場にいたのかもしれない。

もう結婚して何年も経っていて子供がいないことを揶揄する人もほとんどいなくなってた時期だったのだが、震災を経て、なんとなく子孫は残すべきなのかな、と、思いはじめて、翌年くらいから子供を作る方向に考えがシフトしていた。人事異動で飯田橋に行かなくなったので都内の満員電車とは縁遠くなり、バンドも辞めて、妊娠はすれど出産に至らずを繰り返し、致命的な病気の疑いで脳にカテーテルを入れる羽目になり死を突きつけられ(誤診だったが)、震災後も大事な人の死を何度か経験している。

私はその後色々あって精神を病んだせいか仕事を点々とするようになり

犬は急病で亡くなり、そして離婚して私は家族を失った。横浜からは離れて東京に移り住んだ。

ひとりぼっちだ。

気づいたらだいぶ年を取っていて、もう自分の子供をこの世に残すことは不可能な年齢になりつつあり、おそらく再婚もできない。

絶対的な孤独しかここにはない。

それでも、津波に飲まれた人たちの絶望感を思うと、もうこの世にはいない知人たちのことを思うと、なんとか、しっかり生きて行かなくちゃいけなぁなぁとぼんやり思う。

 

それにしても自分はクズみたいな毎日を過ごしていて、自堕落でどうしようもない。しかも若さも失われてきている。

この8年、一体何をやっていたんだろうか。

こうやって絶対的な孤独が来たのも自分がクズだからなのは明らかなのだけれど

8年前の今頃は東北のサーバーに必死でpingを打って疎通確認したり、まじめに仕事していたのだった。今の自分が不真面目ってわけではないのだけれど8年前はもっと必死だった。あの頃の自分はどこに行ってしまったんだろうか。

 

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今夜の月は綺麗だった。

 

話は震災のさらに何年も前に遡るが、新卒で入って3年働いた会社を辞めて、実家に帰って、いろんなきっかけで再就職することになり茨城県神栖市というところに移り住んだ。当時は神栖町だった。

知り合いが誰もいない、電車も走ってないような僻地にひとりぼっちで暮らして新しい仕事をしていた。

海が近い工業地域で、地平線が見えるようなどこまでも続く平野が広がっていて、たいした収入も得られなかったので、ちまちま自炊して生きていた。

今の状況に少し似ている。

その「神栖市」という地域は、茨城県の最南端であり、東北ではないけれど311の震災で津波液状化で結構な被害に遭っていた。サッカーの鹿島アントラーズのスタジアムが被害を受けたニュースは流れていたが、あの近くだ。

神栖の被害状況はあまり報道されてなくて、ネットで調べて情報を得て、なんというか、2年くらいしか住んでなかったけど、知ってる場所が被災しているのでイメージは濃かった。

 

いつか神栖にまた行かなきゃ、とか思ったり、会社とかで東北復興のボランティア募集があると行かなきゃと思ったり、そうでなくても当時は親戚がいたから石巻に行かなきゃと思ったり、全部思ってるだけで何もやれないまま8年が過ぎてしまった。元旦那は親戚の件もあり何度も現地に行ってたんだから、ついていく選択肢はあったはずだったが。

被災の当事者に近かったはずなのに、何も行動に移せなかった自分は本当にダメだなぁと思う。

その後も日本で世界で自然災害が起きていて、東京で大地震が起こる確率は高いらしくて

いつかくるその日のために備えておくとか、そういったことはしているのだけれど

ダメでクズな自分が生き延びてしまって申し訳ないという気持ちをずっと抱えていたが

とにかく生きていられるという事実に感謝するしかなくて

そしてせめて近しい関係の人たちのことは大事にして、みんな幸せになって欲しいと

そんなことを今日は考えていた。

 

311のことは、忘れないようにとメディアとか誰かが言っていると思うけど

先述のように細かく今でも覚えていて、たぶん忘れることはないでしょう。

8年という時間は短いようで長く、そして軽くなくて重くて

そういえば平成も終わっちゃうし、きっとあと8年もすぐ経過するんだろうと思う。

 

その頃の自分はどうなっているのか。

ダメでクズな自分、少しでも成長できていたらいいのだが。

 

会社で特に黙祷とかありませんでしたが、その時間は目を閉じました。

 

おわり