ぱっとしてない人生の持ち主が再就職を試みる物語
けっこうな年齢になりました現在四十八歳、再就職活動をしてみたので、おぼえがきです。

精神疾患で休職したり体壊して通勤できなくなってクビになって、みたいなこと繰り返して無職です。
メインの仕事はWeb系のエンジニア、PMとかディレクターやってたので上流もやっていたのと、UIとか広告とかアナリティクスに詳しすぎるので、なんとなくのディレクションじゃないコンテンツビジネスが作れる、toB toCどちらも長くやってた、そんな感じでスキルはあると。
Webに拘らなくても開発経験は広くて深い。IT業界の良い位置にずっといました。大変でしたけども。
ぶっちゃけ、今まで仕事はすぐみつかる人でした。
というのを念頭に置いて以下を読んで頂きたいでーす。
私は、いろんな理由でいじめられたりいじられたりしやすい人間をやっていて、社会に出てからも全否定されてしごかれる企業で社会人デビューをしたので、自分という人間に対してめちゃくちゃ冷たく期待もしていない感じの人生を送ってきました。
妙な死生観を抱えているのもいじめやら否定されがちな子供時代からずっとです。
近年は精神疾患がひどかったり、今年に入ってからは内臓のほうがめちゃくちゃな状態で肉体的にもボロボロだったりしてて
そのへんの原因でせっかくみつけた仕事も続けられなくなって
もうこれは人間として、人並み以下の生活すら無理かなって思ってました。
何年か前に「もう自分は誰かに依存しないと人生が続かない」と、公の場で吐露したりはしてたものの、なんとかなるかもと淡い期待をもってした再就職では即刻体を壊して退場。
もう自分に期待とか持てやしません。
なんとかして実家に引き上げて、衣食住は確保、両親の庇護のもと「療養」の名の下にほそぼそと暮らすか、生活保護受けるとか障害者枠で公的扶助をどうにかするかとか、いずれにせよ「今までまともだと思っていた普通に働いて普通に暮らすという」「当たり前」に近い生き方はとれないものだと。
公的扶助を受けるほうに傾かないのは、自分の価値のなさを知ってるので「公的に世話されてまで生きるほどの存在じゃないだろう」という考え方から抜けられてないからです。
なんなら死期を早める結果になる。
そんなら実家に籠ったほうがなんぼかマシでは?
そんな感じでモヤモヤしてたのが七月くらいの話でしたっけ。
六月に足の剥離骨折という怪我を起こしてしまい、まだ足が痛くて、体調も悪くて、会社もクビで、衣食住も危うくなってきて
そんな末期的なこと考えてモヤモヤしてたら帯状疱疹になってしまいました。あれは七月の下旬かな?
いやー、悪いことって重なるもんですね。
季節的には猛暑、ずっと家からも出なくて、となると外出に伴う必要なこと(こまめに風呂に入るとか、服装に気を使うとか)も、やらぬまま日々だけが過ぎていき、全身が痛いので横になってる時間が超長い。
今になって思うと、よく、生きてましたね私は。
しかし、そんな状況でしたが、、、、振り返ると、おそらくですがこの頃に長らく患っていた鬱病から脱していたのです。
色々めちゃくちゃな話なのですけども。
8月に入ってすぐ、珍しく外出したのが、推しシンガーソングライターの黒木ちひろ先生のライブをフラッと観に行ったことでしたか。

黒木さんは、存在を知った時から憧れのひと❤️なのですが、距離はさほど遠くはなく、何度も共演したりお寿司食べさせたりしています。
私のような下等生物とは人間としてのランク的なものが違いすぎるので、まさに天上人って感じですけど、たまに近い目線になってくれて、お寿司食べに来てくれたときは嬉しかったなぁ。
「7月にライブ行くね」と、六月に言ったのに、行くつもりのライブの日が帯状疱疹と重なってしまい、要するに体調壊し過ぎて行けなくて、そんな自分が悔しいのもあって八月上旬に行ったんですよ。
まだ足も痛いし帯状疱疹の後遺症で全身痛いし、たいへんな時期ではあったものの。
先ほど書いたように、実家に引っ込むか公的扶助で生かされるか、という未来しか見えてなかったために「こういう場所に来る機会」も、なくなっちゃうんだろうな、とか、この時は思ってました。
黒木さんにも言ったんですよ、実家に引っ込むネタは。
ご本人にいただいたサインにも

茨城の文言が。
ま、それで、結局のところ、この日に、あまりにも先が見えない人生なのに「黒木さんカワイイ」「太客になりたいなー」ってなって
太客になるには稼ぐしかない!と、このあと、気持ちは再就職へと向かうわけです。
色々、この日がきっかけになった、ってことですかね、今思えば。
なんやかんや黒木さんの家方面には足を向けて寝れない案件が増えてしまったなー(以前、黒木さんのおかげで地上波ゴールデンに出れたりその他色々あり、全然足を向けて寝れてませんでした。推しが恩人てやばい)太客になって恩返ししなくては、、、
とはいえ八月、まだ体が動かない状態です。
結果、寝込んだまま八月は終わります。しかも八月下旬に、元同居人が上京するってんで深夜に飲みに行ったタイミングで、常用のメガネが折れちゃいまして
デジタルデバイスが見れなくなって
家で普通にインターネットする時間なども激減しちゃったんです。なかなか就職活動に移れない。
そんな中、気づいたら年明けから続いてた体調不良から脱してました。
そして九月初頭に、兄に会うんです、蒲田で。
兄は東京にくる用事があり、そのついでに2人でめしはどうかと誘ってきました。
私と兄はたぶん、仲が良いほうに入る兄妹で、今でもたまに超長電話(3時間とか)しますし
お互い独身の頃は2人でドライブ行ったり動物園水族館行ったり2人で映画お芝居観に行ったり、そんなことも多くて、兄が九州で働いてた時は家に泊めてもらったこともあります。
でもまあここ何十年かは、お互い結婚してたり、私が離婚騒ぎと精神疾患で「触らないでください」的な存在になってしまったり、その後社会復帰にことごとく失敗して実家とも疎遠になりかけたり、色々で2人で会うとかなかったな。
まあこの、単独で上京する用事が発生して、そのついでに、絶妙に現在世間から振り落とされているタイミングの妹にめしを食わせて励まそうということをするって、、、思いつく兄は凄い。
優しい兄なんです。
わざわざ蒲田に寄ってくれたのも優しい。
で、兄と昼から飲みに行きました。私は酒やめたので酒飲んでませんが、お肉とそれにまつわる色々を食べながら、ビールを飲む兄、人間界トップクラスの人格者なので私を励ましてくれました。
友人たちの逸話を話しながらも「東大出たって人生色々なんだ」という心に響くメッセージをくれる兄、得意な仕事のシステム構築の話を私に語らせて「いやー、仕事の話してる時が一番いい顔してる」と、仕事の喜びを思い出させてくれる兄、「すぐ仕事がみつかる経験と技術があるのは羨ましい、俺なんか今のタイミングで会社やめたらどこも雇ってくれない」と、社会復帰への自信をくれる兄、さんざん飲み食いしたのに帰りの新幹線で食べるためのいなり寿司を買い込み健康の喜びを伝えてくれる兄、実家に引っ込む可能性を伝えたら「兄としては高齢両親への心配がなくなるからありがたい」と、否定せず受け止めもする兄、すごい人です。
で、実際、また仕事しようって本気で思えたのは兄と会ったタイミングでした。
その後、ようやく就職活動へ向けて脳内シミュレーションを始めており
メガネも買いに行きました。
就活、まだエントリに至らなかったのは暑さのせいか。
恐怖も大きかった。
今回はもう「精神も肉体もボロボロのため、配慮が必要」というのを開示して配慮してくれる会社に行かないといけないし、そんなこと言ってる四十八歳を雇うというリスキーな会社、あります?
ないよねぇ、、、
という恐怖です。
あっという間に9月も下旬になりますが、ここで一気に就職活動に気持ちが向くことになりました。
9月21日にライブをやったんです。その前日、いきなり私は黒髪になりました。真っ黒。
ライブのためというよりは就活向けのほうが大きかったかな。
実はこの日のライブは対バンに憧れの黒木ちひろさんもおりまして
黒木さんに会うとテンションが150倍くらい増して、全体的におかしくなるので
年長者の圧で「この黒髪どう?どう?かわいい?かわいい?」という感じのプレッシャーを与えて「かわいいです」と無理矢理言わせてしまいました、黒木さんごめんよう、、、、、

この日の黒木さんは、いつにもましてきゅるきゅるの可愛さを放っており
「太客になりたい」の思いがいっそう濃くなりました。かわいいは人を救う。
とはいえ、まだ就職活動は具体的エントリ作業に進まずに10月に突入します。
これはだいぶ以前からこうなんだけど、とにかく暇なんですよね、毎日、ずっと暇。
なにもしないでいられる人なんだけども、暇。
人間はここまで暇になるとどうなるか。答えは、、、インターネットもやらなくなり、情報を得なくなります。
5月くらいからTwitterも全然読まなくなり、投稿や告知やニュースの話題が多いアカウントは、中の人が友人や推してる方々ですらミュートしちゃってまして
そのほかのSNSもタイムラインを追いかけなくなり、かなりの情報弱者になってはいましたが
気になったことの検索くらいは、やってたんです。それまでは。
でも、8月や9月の自分のように、ほんとに完全に暇だと、各種SNSで情報をとらないことにくわえてYouTubeやTikTokも情報量のある動画を観なくなり
最終的に「動物がなにかしてる動画」しか観なくなりました。
新しい情報に触れることがそもそも面倒くさくてテレビも見なくなり、ネットニュースも見なくなり、こまごまとしたSNSなんかマジのマジのマジで追いかけない、スクロールしない。
暇で時間があるのに、いや、あるが故に。
この「暇すぎて情弱」は、めちゃくちゃやばい。
暇だからライブとか行けるのに、ちょっとだけ得た情報で行きたいと思ったライブもイベントも映画も、全部すでに終わっている。。。
娯楽だけならそれでもまだ、いい、社会的に必要な手続きも気づいたら締め切り過ぎていたりする。気づいて唖然とする。
やばい。自分が社会から「後回し」にされていってる!
初めての焦りと危機感でした。
このタイミングで気づかなかったら、どんどん弱って死んでたかもしれません。
情弱の自分に唖然としたのが10月4日。
「やばすぎる!なにかしなくては!」と思い転職サイトのアカウントを復活させ、ほか色々あって10月6日とかには書類の更新やらも始めて、スカウトが来始めたのが週明けの10月7日。
転職サイトのスカウトシステムってザルでして、日に300件くらい来ます。そこから厳選してエントリーに移行、書類選考通過したらWeb面接なんですけども、翌日の10月8日には初回面接が始まり、日に数社を三日間。
結果としては三日間面接した会社は全部内定いただけまして、今に至ります。
すごい内定率。100%って、、、、
ここから先は手元に残ってるカードの中から最善を探す作業ですね。
ほんの一週間で「選ぶ側」になりました。
ちょっとびっくりしているのが、病気の件はどの面接でも全部きちんと開示してて、それでもウチで働いてほしいって言ってくださる会社が、こんなにもあるということです。
「まず通勤が無理です」って、そんなやつ雇ってもらえるんですね?
そういう「ゆるい ぬるい」勤務スタイルでも、私の経験と技術はお金になるんですね??
なる、と、思ってくれる会社さんがいるんですね????
すげー
冒頭に書きましたが、自分というもの自体に期待は持ってませんが
宣言してたことを全部現実にしてきたエンターテイナーの「クツシタサン」や、本業のほうでは出されたKPIをほぼ全部達成してきた、鬼の仕事人の自分は、存在として面白いと思っています。
心身を壊すというトラブルに遭って、どう見ても人生うまくいってない感じです。
しかし、こうやって再出発することができるんですね。
ちょっと話は横道にそれますが
何においても私が思っていることがありまして、それは
「努力が報われないと思っているひとは努力をしていないだけ」ということです。
(努力?って概念もそもそも好きじゃないんですが)
仮に目標を達成するために必要なものが「努力」だとしたら、結果が伴わないものなんて努力でもなんでもないです、ただの徒労でしょう。
やってる内容と、やってる量が、目標に合ってない、それだけなんです。
適切なものを適切な量やって結果がついてきてはじめて「努力」が成立するものじゃないかな。
努力してるのに結果が出ない、目標が達成できない、という場合はその「努力」の質と量を明らかに間違えているだけです。
それか、そもそもまったくその人に向いてないことをやっているのか。
ほんとにな、過程だけを尊重してなんの結果も出してない者が努力してるんですぅ、努力は報われないんですねぇ、とか言い出す風潮、よろしくないです。
必ず結果とセットで過程は語られるべきで、結果がついてきてない過程にはなんの意味もありません。と、私は思ってます。
甘やかしちゃだめですよ、努力が報われないとか言ってる人のことは。
なので、色々あって精神と肉体が壊れたけど、社会復帰の足掛かりとなる「内定」が取れた、という、このブログエントリは、結果を出した人の記録です。
書いたように、そもそも、今回もまったく苦労してないですが、結果のための努力なんて楽しいことでしかなくて、苦労ではないですから
面白おかしく捉えております。
最終的にどの会社に進んで何をするのか?
一週間後には全て決まってると思います、よい未来が、そこに、ありますように。
東京5年生
先日、ちょっとだけテレビに出演しました。
出演というか街頭でインタビューされてコメントをしたのがちょろっと流れた、という程度ではあるが
なにしろ地上波のゴールデンである、偶然見てた友人知人がすぐ気付いてくれた。
見た目はともかく声に特徴がありすぎるので、自分でも出てきた瞬間びっくりした。
(いつ流れるかとか知らされてなかったし、全カットもありうるので、ぼんやりテレビを見ていた)

東京に来たのが2018年の1月。
つまり、東京5年生になりました。
なんもかんも、5年めになるほど時間が経つのに中身は成長もせず、うつ病には苦しみ、体重は増加して、この5年間を振り返ろうとしても記憶がおぼつかない年代になってしまったわけなのだが
実は東京に来てから、なぜか毎年テレビに出ている。しかも全部地上波。
わざわざ出たことを公言するまでもない背景キャラだったり、電話インタビューだったりもあるのだが
デカいとこでは、あれよあれ、家についてきてもらってライブハウスで芸能人とセッションしたりもしてて
なんだかんだ毎年地上波に出ている。
やっぱチャンスがあるんだな東京には。
東京ってすごいんですね。
と、思ったが、近しい知人友人親戚をあたっても「毎年地上波に出ている一般人」というのは、あまり見当たらない。
わりと珍しいことなのかもしれない。
そりゃ、酔っ払って下北沢を歩いててテレビの人に声をかけられる→ライブハウスで芸能人とセッションする→地上波ゴールデンで流れる
という流れの急展開のすごさ、本人はのほほんとしていたのだが、かなりすごい話なのではないか。
テレビに出たい若者など今はいないのだろうか、いるとしたら、東京に来れば出れるよってアドバイスしたいが、いや、そうでもないのか、私の運が強いのか。
なんだかんだテレビに出るというのは今でも結構なすごい話で、人気のYouTuberみたいな位置付けの人も地上波に出るってなると歓喜していたような、、、
誰でも出れるわけではないのだな。。。
たくさん失って東京に逃げてきて、得たものはテレビに出る能力でした。
ってことですか。
あまりこう、なんだ、音楽とかやってて
積極的に売れたいとか有名になりたいとか、若い頃はそういう思いも少しあったかもしれないけど、ガツガツしてる感じではなかったです。なんでガツガツしなかったというと、それなりに願望が現実になっていってたからです。
いつか共演できたらなーって思ってた人とふつうに共演したり、時にはそれが世界規模のすごい人だったり、テレビもくつしたやりはじめてわりとすぐ、20代の時点で出たっけな。
いろいろありえない経験は積んできておりまして。ガツガツしてないのに。
と、しれっと書いてるし相変わらずのほほんとしてますが、ひとつの画面の中で自分が芸能人と一緒に映ってて、それを全国の人が見てるんだ、って、想像つかないけど、いろんな場所のいろんな家庭のテレビで私が喋ってるさまが見られていたのですね。
本人は駅前の、都がやってるPCRモニタリング検査を受けて、ふらふら酒のことなど考えて歩いてたところ制作会社の人に声をかけられて、あ、出てもいいっすよーってなってそのままインタビューされた(そして酒を買って帰った)という軽い感じだったのですが。
で、その他、収録に至ってないけど街角でテレビの人に声をかけられる、という経験は昨今ほかにも何度かありまして
しかもそのうちのひとつは、出たことある番組だったり。
どれほど家についてきたくなる顔をしているのだ、わたしは。
まだオンエア未定の何かがあるらしいので、ってフワッとした言い方しかできない段階ですが
このあとも地上波のなにかに出る予定です。
その時は告知します。たぶん。

おわり
10年経っても変わらず、老いだけがある
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」
会社員兼ミュージシャン、肩書は10年前とは変わらない。
ここ10年のそれ以外の変化は割とある、あの頃生活の中心にいた愛犬は天国に旅立ち、離婚を経験し、精神疾患になり、仕事も何度も変わり、神奈川に住まなくなり、さらに貧乏になった。だいぶ変わった。
精神を病んでしまったので、脳が壊れてしまった。
本来やれていたことの殆どができなくなった。
自分のパフォーマンスを発揮できないから仕事もできない。車の運転もできない。基本的な生活ができない。良い音楽が作れない。楽しいライブもできない。ミュージシャンとして必要とされない。
人格も変わり、体型も体質も変わり、おそらく生きているのが地獄のようにつらい。
そして老いた。老いだけがここにある。
10年間で知り合った人たちは、その前、本来のわたしを、知らない。
10年より前からの友人知人は皆、家庭を持ったり立派な仕事をしたりしていて
ライフステージが変わってしまい、以前のようなスタンスで仲良くできない感じになった。
ともかく孤独である。
ただ、10年前ならともかく、こんなふうになった自分には、孤独を埋める価値すらないと思うので
ただただ耐えている。
10年後を考える。
10年後はおそらくこの世にはいない。
どことなく体調が悪くても、精神の薬が切れても、歯の詰め物がいくつも外れても、病院などには行かなくなった。助かりたくないからだ。
病院というのは助かりたい人が行くところである。
なにもかも変わってしまったのだが、離婚も精神病も貧乏もなにもかも自業自得であるので
そして修正することもできないので
みじめに孤独に生きて、10年以内にはなんらかの要因で死ぬ。
みっともない人生だったが、自分の意思で生まれてきたわけではないので
これも仕方がないのだと思う。
あのまま壊れずに生きていたら、思い描いていたように家庭を持ち続けていたら、同じような仕事を続けていられたら、楽しいミュージシャンのままでいられたなら、きっと素敵な10年間だったろうし、この先の10年20年も生きていられたのだと思う。
なにもない自分。
唯一変わらなかったことは、生きている、ということであるか。
それくらいしか見つけられないくらい、なにもかもが変わってしまった。
10年があっという間だったのかもしれない。
だとしたら次の10年もあっという間で、そしてこの世から消えることができる。
毎日は好き勝手にすぎていく、まあまあ楽しいこともある。
でも常に「変わってしまった自分」が惨めである。
おそらくこのテーマで書いている人は、皆、子供が成長したとかライフステージが変わったとか、何か華々しいことを書いていると思う。
いくつか読んだがみじめになるだけだった。
同じような気持ちでいる人がこれを読んで、ちょっと救われた気になったら幸いである。
おわり
(ネタバレなし)エヴァシリーズ、完結してしまった。

みんな、みにいっていると思いますが、シンエヴァ、初日の朝7時の映画館に行きました。
まさか席取れるとは思ってなくて、争奪戦という名のサーバー攻撃に参加しまして
最後の3席のひとつに滑りこみました。
渋谷のtohoとか、めっちゃ人が来るところにしたのは、今の会社がそこから徒歩3分のところにあるからです。
9時50分まで映画観てて、10時から始業、間に合いますよね。
大学に入った年にエヴァのテレビ放映が始まりました。
当時の私は、1年間テレビなしの予備校の寮生活明けで
実家にいた頃もテレビを見てなかったので
食いついていました。
その後の深夜のダイジェスト、みんなで集まってみたり、ビデオ借りて集まって上映会したり、映画になった時はみんなで行って旧劇で落胆したり
新劇で興奮、Qで寝込む。
思い出を語るには想いが大きすぎて
でも、今回ほんとに
終わったんだなって喪失感がすごくて
なにしろ人生の半分以上を「エヴァンゲリオンの謎解き」で生きてきた自分なので
終わってしまったという人生の穴が。
青春がやっと終わったのだろうなぁ。
エヴァの結末を気にしないでよい人生が始まってしまいました。
ガンダムとエヴァ、私は、パソコンが得意ではあったけど、数学も点数取れてたけど、大学は西洋哲学を学んでいたようなド文系の人でして
それでも女性エンジニア的なものに憧れていたのは、ガンダムとかエヴァに出てる女性エンジニアがかっこよかったからです。
ホワイトベースをガチで操るミライさんとか、めっちゃかっこいいパソコンの達人、リッちゃんとか。
それでエヴァではPanasonicのパソコン結構出てきて、仕事選ぶ時も「レッツノートが支給される」とか「タフブックが支給される」とかいう条件で飛びついたりして。
紆余曲折で富士通の派遣に潜り込んだときは、エンジニアと少し離れた業務で
シンゴジラのとき「主人公の使うパソコンを選ぶ」というポジションになりまして
私が選んだパソコンを矢口が使ってる!!!ってんで、取材受けたり、ハマりすぎて沼すぎて映画館に通い詰めたりして。
音楽については、ミサトさんに惚れすぎて、朝からエビスを飲む学生生活の中「葛城バレエ団」というバンドを組みました。私の曲とアレンジをやるバンドです。ただバンド名を名乗りたかった。かっこいい大人のミサトさんになりたかった。「こんばんわ葛城バレエ団です」って言いたかった。言えた。そしてそのまま、葛城バレエ団が終わり「くつした」をはじめて
今もミュージシャンでいます。テレビにも出ちゃった。
離婚のタイミングでシンゴジラの狂騒の中にいたので、蒲田に引っ越してきてしまいました。
半生、このように
庵野さんに振り回されておりましたが
結局、たぶん、かなり知識と実績のある女性エンジニアになれました。たぶん。
今ネルフ?ヴィレ?に呼ばれても、リッちゃんの右腕になれるとおもいます。
コーディングはやいし。たぶん。
大事なことは.すべて、エヴァから教わったんだよな。
そして3月8日。朝7時。壮観。300人の「大きなお友達」で満席の渋谷の映画館。
雨の日の、寒い朝。
ずっとこの寒さや雨や空気感を覚えてるんだろうなって思いました。
旧劇のときのそれがそうだったように。
そして、シンエヴァを見てから出社して、何をしてても涙ぐんでしまいそうなほどの気持ちで
でも、そう、金髪ベリーショートの敏腕エンジニア、私はリツコ、という気持ちで頑張れて
会社を出て渋谷の街を歩いていたらぼろぼろに泣けてきてしまいました。
ほんとに終わっちゃったんだ、、、、
この結末を見れずに先立ってしまった友人知人たち、、、
彼らの分も、生きている。
教えてあげたいのに、みんなもう、いない。
なんだよなぁ、これの感想戦でトークしたかったよ、clubhouseとかでさ!
死ぬなよー。

これからもしぶとく生きて、色々なものを見て、見届けて、いきたいなと思いました。
ほんっっっとにアスカ最高。

積みプラモ増やしちゃった。
おわりです。
2017年末、3年前の自分へ

体重は増えます
ダーツはうまくなりません
何度か死にかけますが生きています
想像力の範疇を超えた世界が来ます
コロナは飲むものではなくなります
なぜかアコーディオンにはまります
友達が増えます
東京暮らしはそれなりに楽しいです
コンタクトレンズするようになります
一人暮らしに戻ります
良いことも悪いこともあります
3年間でフリーランス、無職、バイト、派遣社員、正社員、すべて経験します
亀は元気に巨大化します
Queenが映画で大人気になります
半沢直樹の続編を見れます
動画編集が若干うまくなります
サブスクで音源配信をはじめます
なぜかポーランドで再生されます
カラオケでOL10年生が歌えるようになります
なぜか身長が伸びます
ど金髪になります
何度か断捨離してますが部屋は汚いです
再婚はしていません
再婚はしていません
再婚はしていません
再婚はしていません。

怪我はありますが、大きな病気も入院もありません。
とりあえずダラダラ生きてください。
で、3年前の自分、その夢は叶います。
311から8年ですか。
気づいたら3月11日を迎えていて、あの震災から8年も経過していた。
2011年のその日、わたしが仕事していた飯田橋の高層階はものすごく揺れた。割と地震には慣れている茨城県南部の出身だが経験したことがないくらい揺れていて、高層階ってこんなに揺れるもんなのかーと揺れ始めはバカなこと思っていたけど、それはそれはあまりにも長く揺れすぎていて建物からバキバキ音がして、上司が窓際から離れてと言っていて、ただ事じゃなさそうだと検索してみたらこの地震は東北で起きているとすぐわかって
ちょうどその日、隣の席の同僚が仙台に出張中だったので慌ててメールしたのであった。
その後フロアにあるテレビを誰かがつけて、惨状はリアルタイムに観ていて
仙台出張中の同僚は連絡とれて、無事で
そして私は電車も止まって結局家には帰れなくて会社に泊まって、毛布とか非常食が支給されて、自分自身は東北地方出身ではないのだが当時の義理の両親が石巻出身で当時の親戚もみんな石巻に住んでるから色々心配で眠れなかった。
でも翌朝の朝焼けが妙に綺麗だったのを覚えている。思わず写真を撮ったくらいに朝が来たのが嬉しかった。
左端のスカイツリー、当時はまだ建設中だった。

なんとか家に帰ったら、横浜戸塚の我が家は屋根が倒壊していた。

庭でひとりぼっちだった犬はどれだけの恐怖を味わったのだろうか、ブロック塀を乗り越えて隣の家の敷地に逃げていた。
元夫は車通勤だったので夜には帰宅できたが、その時間まで、隣の家は犬仲間の家だったので、水を飲ませてもらったり、優しくしてもらっていたそうだ。停電などしていたのに有難い。
ブロック塀に爪痕が残っていた。


動物は人間ほど都合よく物事を忘れたりできないから、そのあと地震が来るたびいつも静かに震えて怯えていた。
少しでも揺れを感じたら犬のそばに行くようにしていたのだけれど、震災から亡くなるまでの6年間、ずっと恐怖の記憶から逃れられなかったんだろうな。
賢くて優しい犬だったから。

本当に本当に怖い思いをさせてごめん、今になっても、あの量の屋根瓦が揺れの中落ちてくるさまを想像してしまうと泣けてくるほどに、申し訳ない思いでいっぱいだ。

仙台に出張してた同僚はしばらく帰ってこれなくて、元親戚はほとんど無事だったけど津波で家を失った人もいたし命を落とした人もいた。
震災後、仕事はしばらく自宅待機になり計画停電も経験した。壊れた屋根から雨漏りしたり、仕事が再開しても電車が間引き運転してたり、余震がたくさんあったり、何だかんだと日常生活が普通に戻るまで長かった。
震源から遠く離れた横浜にいたが、屋根の件と当時の親戚の件もあり、近所に住んでいる友人知人よりは被災の当事者に少し近い立場にいたのかもしれない。
もう結婚して何年も経っていて子供がいないことを揶揄する人もほとんどいなくなってた時期だったのだが、震災を経て、なんとなく子孫は残すべきなのかな、と、思いはじめて、翌年くらいから子供を作る方向に考えがシフトしていた。人事異動で飯田橋に行かなくなったので都内の満員電車とは縁遠くなり、バンドも辞めて、妊娠はすれど出産に至らずを繰り返し、致命的な病気の疑いで脳にカテーテルを入れる羽目になり死を突きつけられ(誤診だったが)、震災後も大事な人の死を何度か経験している。
私はその後色々あって精神を病んだせいか仕事を点々とするようになり
犬は急病で亡くなり、そして離婚して私は家族を失った。横浜からは離れて東京に移り住んだ。
ひとりぼっちだ。
気づいたらだいぶ年を取っていて、もう自分の子供をこの世に残すことは不可能な年齢になりつつあり、おそらく再婚もできない。
絶対的な孤独しかここにはない。
それでも、津波に飲まれた人たちの絶望感を思うと、もうこの世にはいない知人たちのことを思うと、なんとか、しっかり生きて行かなくちゃいけなぁなぁとぼんやり思う。
それにしても自分はクズみたいな毎日を過ごしていて、自堕落でどうしようもない。しかも若さも失われてきている。
この8年、一体何をやっていたんだろうか。
こうやって絶対的な孤独が来たのも自分がクズだからなのは明らかなのだけれど
8年前の今頃は東北のサーバーに必死でpingを打って疎通確認したり、まじめに仕事していたのだった。今の自分が不真面目ってわけではないのだけれど8年前はもっと必死だった。あの頃の自分はどこに行ってしまったんだろうか。

今夜の月は綺麗だった。
話は震災のさらに何年も前に遡るが、新卒で入って3年働いた会社を辞めて、実家に帰って、いろんなきっかけで再就職することになり茨城県の神栖市というところに移り住んだ。当時は神栖町だった。
知り合いが誰もいない、電車も走ってないような僻地にひとりぼっちで暮らして新しい仕事をしていた。
海が近い工業地域で、地平線が見えるようなどこまでも続く平野が広がっていて、たいした収入も得られなかったので、ちまちま自炊して生きていた。
今の状況に少し似ている。
その「神栖市」という地域は、茨城県の最南端であり、東北ではないけれど311の震災で津波や液状化で結構な被害に遭っていた。サッカーの鹿島アントラーズのスタジアムが被害を受けたニュースは流れていたが、あの近くだ。
神栖の被害状況はあまり報道されてなくて、ネットで調べて情報を得て、なんというか、2年くらいしか住んでなかったけど、知ってる場所が被災しているのでイメージは濃かった。
いつか神栖にまた行かなきゃ、とか思ったり、会社とかで東北復興のボランティア募集があると行かなきゃと思ったり、そうでなくても当時は親戚がいたから石巻に行かなきゃと思ったり、全部思ってるだけで何もやれないまま8年が過ぎてしまった。元旦那は親戚の件もあり何度も現地に行ってたんだから、ついていく選択肢はあったはずだったが。
被災の当事者に近かったはずなのに、何も行動に移せなかった自分は本当にダメだなぁと思う。
その後も日本で世界で自然災害が起きていて、東京で大地震が起こる確率は高いらしくて
いつかくるその日のために備えておくとか、そういったことはしているのだけれど
ダメでクズな自分が生き延びてしまって申し訳ないという気持ちをずっと抱えていたが
とにかく生きていられるという事実に感謝するしかなくて
そしてせめて近しい関係の人たちのことは大事にして、みんな幸せになって欲しいと
そんなことを今日は考えていた。
311のことは、忘れないようにとメディアとか誰かが言っていると思うけど
先述のように細かく今でも覚えていて、たぶん忘れることはないでしょう。
8年という時間は短いようで長く、そして軽くなくて重くて
そういえば平成も終わっちゃうし、きっとあと8年もすぐ経過するんだろうと思う。
その頃の自分はどうなっているのか。
ダメでクズな自分、少しでも成長できていたらいいのだが。
会社で特に黙祷とかありませんでしたが、その時間は目を閉じました。
おわり
東京一年生、2018年を振り返る。
昨年末バツイチとなり、年明けに引っ越して東京都民になりました。
今年はそんな東京一年生な年でした。
私は田舎っぽいところで育ったので、頑張って勉強してそこそこの大学にいけば東京都民になれるんだろうと夢を持っていたのですが、大学は東京を飛び越えて横浜に行ってしまいまして、その後も「都内で働く」ことはあったものの都民になることはなかったんです。
いつかその夢は叶わぬものかと思っていたんですけど昨年末の離婚が決まって、もう、すごい勢いで「おら東京さ行くだ」となり、蒲田のはずれに引っ越してきてしまいました。
ちなみに年明けの引っ越しは元旦那と私の音楽仲間の屈強な男性らと行いまして、業者なしでの引っ越しでした。
元旦那、マジでいい人、というのと、そういう時「引っ越し?手伝う手伝う」と駆けつけてくれる仲間がいるってのは良いですね。
と、いうことで、蒲田のはずれの2Kの家に、12歳年下の友人女性とシェアハウスな生活が始まりました。
同居人、ガチで12歳年下でございまして、そんな一回りも下の女子と暮らせるんか?という感じでしたが、一年間あれやこれや楽しかったし同居人いてくれて本当よかったです。
ちなみに同居人は年明けに出ていき地方に永住いたします。
地元でもないところの土地に永住を決める。
私より一回り年下でそういった決意ができるのって凄いなあと思いつつ、そういえば私が結婚しようかって実家を出たのはそれくらいの年齢だったんで、ま、そういうもんなのかなーとも思います。
で、気になると思いますが、どうして一緒に暮らそうってなるような、一回りも年下の友人がふつうにいるのかというとそれは「くつした」の活動してるときに知り合った子で、端的に言うと「くつしたファン」というか色々ライブ来てくれたりしてた子で、あと昨年亡くなったうちの犬と仲良くなってくれて、犬が急に病気で倒れてもう歩けなくなってしまったとき、泣きながら彼女に連絡したら、駆けつけてくれたんですね。最後のお散歩は一緒に行ったんだっけな。そういう間柄でした。あれは本当に感謝してて、今でも思いだすと少し泣けてしまう。
そんで最近もそのうちの犬のこと「親友だった」って言ってくれてて、あっ、やっぱいい子だなぁ、一緒に住んでくれてありがたかったと心から思いました。
つらつらと一年の生活を振り返って書いてみますね。
1:一回り下の赤の他人と暮らすって?
ふつうに考えると、世代も違う女子と暮らすのってうまくいかなさそうじゃないですか、でも、なんか一年間仲良くやってました。特にすごい喧嘩したとかいう記憶もないし、お互いがお互いのペースで暮らしてて、でもそれ以前からよく飲みに行ったりしてた仲良しなのでタイミングが合えば二人で飲みに行ったり、家飲みしたり、まあ色々と。
私も元々寮生活とか結婚という名の共同生活とかやってきたので「だれか一緒にいる」のは割と慣れているし、それなりに気を配るのはストレスでもないし何かあっても我慢するというほど我慢してる感じもなく。
同居人も前の家もシェアハウスだったので、共同生活慣れしてて、そのへんはうまくやってくれるタイプでした。
あと仕事が同業者(エンジニア)だっていうのもあって技術系の話が普段の会話でふつうにできたのも面白かったです。
特に同居のストレス的なのはなく、楽しい一年でした。
まぁ私のほうが年上ってのもあり若干「年上の余裕」的なところはあったかな。
なかなか忘れられない一年になったかなと思います。
あ、なんで一緒に住むことになったのか書いてなかった、離婚が決まったときにFacebookで「だれかルームシェアしない?」みたいなこと書いたら即「する!」とコメントくれて、そのまま進んでいきました。物件も二人で回って見つけました。
2:生活の変化
・テレビを見なくなった
・朝、なぜか起きるようになった
・部屋が汚れなくなった
・コンタクトレンズにした
・就職した
ものすごいざっくりまとめてしまいましたが、日常的にテレビ見なくなってしまいました。
同居人がいるから「音うるさいかなー」と気を使っていた、というわけではなくて、長い長いイヤホン買ったので、見るのは可能なんです。あと生活時間帯も微妙にずれてたから家に一人でいるってことも多くて、でもテレビつける気にならなくて。
今までは起きたらテレビつける、寝るまでついてる状態だったのに変わるもんだな。
ブルーレイレコーダーもあるし、ドラマの録画予約とかしてたんだけど、あんまり見ないで削除する感じで終わってしまった。
あ、でも、オリンピックとかサッカーW杯とかは見てたんですよ。
日常的に見なくなった理由はよくわかんないです。とはいえ、見ないでも生きていられるんですね、テレビって。
だがしかしテレビを全く活用しなかったわけではなく、Fire stickがあったのでamazonのプライムビデオとかは大画面で見たいんで、それで使ってたかな。
つい先日同居人と家で飲んでて、全然テレビ見なかったよねって話になって
あまりにも使わないからテレビ売っちゃおうかなとか言ったら、一旦売って、安い4K買ったらいいんじゃないかとアドバイスされました。
「そしたらフレディーも4Kで観れるで!」と、同居人が熱く言ってて、あ、ボヘミアンラプソディーのBD化した後のことを言ってくれてんだなと。
同居人、面白いでしょ。
朝起きれるようになったのは、我が家の日当たりが良すぎるからです。一日中日当たりが良いんです。で、もう強制的に目が覚めてしまう。
あと線路が近いから若干うるさいってのもあるのですが、えーと線路の近くで暮らすのってやかましそうなイメージあるとおもいますが、あれって、暮らしてると耳が慣れちゃうんですよね。マジで。
学生時代にガチで線路の脇に住んでた事があって、めちゃくちゃやかましかったし揺れまくってたけど、慣れてしまいました。
私だけか?と思ったら同居人も線路の近くに住んでた経験があり、慣れるわなって話になって、物件決めるときにそれは障壁にならなかったです。
部屋が汚れなくなった、ってのは語弊があるんだけど、やはり同居人が女の子だと自然と整う感じでした。えーと結婚中は夫婦ともに散らかし放題で(申し訳なさで今はいっぱいですが)年に一度だけ片付ける、みたいな感じでしたが、まぁ日々そこそこな状態は保っていて、あと引越しに伴い超絶な断捨離をしたため、ものが少なく、散らかすものもなかったと。
で、家の間取りの関係で、同居人の部屋を通過しないと自室にたどり着けないのもあり、飲食は全て自分の部屋ではなくキッチンスペースで、と、自分内ルールを決めたら、食べ物が散らかることもなくやってこれました。
少し意識改革できたかなぁと思ってます。
メガネをやめて(完全にはやめてないが)コンタクトにしたのは、割と同居人の影響が強くて、同居人、さすが12歳年下で若くてオシャレなんっすよね。あ、私わりとぱっちり二重に生んでもらったのにメガネで隠れてるのも少しもったいないのでは、あと、婚活で玉砕したのを若干メガネのせいかもと思ってて、40代にして初のコンタクトデビューしました。
片方だけ乱視用で少し難しいですが、そしてまあ普段はメガネのことが多いんですが、コンタクト生活、面白いです。
私はライブで踊ったりドラム叩いたり色々そういうときにメガネがあるとズレるわけで、そのロスタイムがあると万全なパフォーマンスできない、という悩みがあって、それも解消されたし、ダーツのレーティングもコンタクト効果で上がりました。めでたし。
で、コンタクトにしたら就職してしまいました。無限フリーランスなのかと思ってたらまともな仕事に就いてしまいまして
私がふつうに朝9時に会社に行く生活できるんかーと不安もありましたが、1か月とりあえず続きました。
今度の職場はすごく良くて、何が良いって人間関係が良い、びっくりするくらい人格者ばかりでしかも仕事がみんなできるできる。
今までの仕事で感じてた「色々決めても上の判断とかで進行が遅くて萎える」みたいなことはありえない会社です。
続けていけたらいいな。
4:出会いがあった
私はふつうに生きてても出会いがたくさんある生活をしておりまして、よく聞く「出会いがないんです」という社会人の悩みが分からず、今年も色々な方々と出会ってきました。
もちろん全てが良かったわけではないですが、ほんとに、出会えてよかったなって思える人にたくさん出会うべくして出会ってこれたので、そういう意味では東京に出てきてよかったです。ほんとに感謝しかないな、出会いの運の良さについては。
5:このあと
同居人はいなくなりますが、とりあえずあと一年はここで暮らそうと思います。
東京二年生。
でもまぁ一人暮らしだと面積を持て余す感じがありまして。
もし同居してもいいかなって方がおりましたら連絡くださいませ。
2018ありがとうございました。
またね。