素通り通信

愉快な記録です。

ふんわり抜けたうつ病と秋のさみしさ、黒木ちひろさんのライブを見にいった話

30代の序盤だったか、一緒に飲んでいた友人が「20歳の頃ってつい最近だったって感じするじゃん」と言っていた。
その時はそんな感じもしていた。20歳からあの年齢まで過ごした時間、そしてその時点から今までの時間、体感的には後者のほうがずっと長い。
年を取ると月日が早くなるというのは結構真実ではない。

その翌年友人は癌でこの世を去った。ちょうど11月のことだった。なので、なんとなく秋はいろいろと思い出してしまう。

運命はいろいろなものを奪ってしまう。
生き残ったのが自分でよかったのか。
こんな40代になってよかったのか。
もっと早めに見切りをつけるべきだったのではないかと。

つい最近も以下のようなことを書いていた。

kutsushita.hatenablog.com

仕事でもそれ以外でも、20代や30代の若者と話をすることが多い。
本来なら、40代のくつしたさんが楽しそうでかっこいいから、自分も大人になるのが怖くなくなった、ああいう40代が待っているなら生きていきたいなと思わせるような40代でいるべきなのだが、自分ははるか遠いところにいる。

 

ちゃんと抜けたのかどうか定かではないのだが、今年、抗うつ薬とかの類を飲まなくなって、離脱症状も出なくなった。
薬で脳内物質をいじっている状態から脱したのだ。
こうなった自分は本来の自分なのか、それとも壊れた部分はそのままなのか、わからない。

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そんな、なんてことはない秋の日、黒木ちひろさんのライブを見に行った。
黒木ちひろさんというのは何というか、いつも整っており、ミュージシャンとしても人間としても立派で、つねに我々の背筋が正されるようなふるまいをされていて、尊敬に値する感じの人で、というかまだ全然若い人なのだが、同世代にこういう人がいたら、勝ち負けではなく打ちのめされて、自分は早々に音楽とか辞めていたんだろうなと思う。
おそらく、24時間365日黒木ちひろさんが黒木ちひろさんであり続けるのは大変だろうけど、ずっとそこにありつづけている。尊敬しかない。

決定的に黒木ちひろさんには足を向けて眠れないと思っているのは、今年の初頭の自分のテレビ出演、あれは黒木さんのライブを見に行った帰りに取材陣にキャッチされて実現したものであり、もう黒木さんのおかげでしかない。それで最終的にオンエアされるとかいうレベルを超えて、長年大好きだった芸能人の方やキラキラしたジャニーズアイドルと全国放送でセッションまでやってしまったのだから、ほんとに感謝しているし寝るときたぶん足は絶対に向けない。
かといって、私に、その感謝について、できることがあるかというと何もないので、精いっぱい黒木さんを応援するのである。

 

で、半年ぶりくらいに、その黒木さんのライブを見た。何度か行ったことのある横浜のハコである。
何かスペシャルなことがあるわけでもない通常のブッキングのライブ、自分にとってもそう、何かスペシャルなことがあった日ではなくいつものように労働に疲弊して見に行った数あるライブのうちのひとつ。
だったのだが、妙に心にひりつく印象が残るライブだった。切実さがすごかった。
まあ、概してライブというのを繰り返していると、特別ではない時のものが、ずっと頭の中に残り続けるような、そういうことはあると思う。
自分も経験してきているが、ものすごい有名人と一緒のイベントとか、ものすごいお客さんがパンパンに入っているとか、ものすごい大きな会場でやるとか、ものすごいゲストと一緒に演奏するとか、ものすごい事務所のプレゼンライブとか、ものすごい台数の配信カメラがあるとか、そういった「ものすごいこと」が特段無い、そういった日も音楽は音楽で、ライブはライブなのだ。

黒木さんは割とこう、きちんとした演奏をする人で、「緻密に折り目正しい」という言い方が合っているかどうかは分からないのだが
逸脱することにスリルと美学を感じてステージに立ち続けている自分には絶対にできないスタンスだ。たぶんそうなのだ。
でも、そういった黒木さんが「折り目」からはみ出すアウトプットを出したとき、聞きなれた言葉もメロディーも全然違うルートで直接心に刺さってくる。

「音楽」ではなく「表現」を浴びせられた瞬間だ。

おそらく「ライブ」をいうものをその場で見るという醍醐味は、そういった、その場所にいないと刺されない箇所でずぶずぶと刺される体験があるかないか、というのがあると思った。

この日のライブは、その、ひりひりとした「表現」をたくさん浴びた、そんな気がした。

 


「すごくよかったです」って言えばよかったのだが、私のような人が言ったところで、、、、どうなのだろうか、、、と逡巡してしまい

感想がうまく伝えられなかったので、買ったばかりのビールを黒木さんにあげた。

自分は最近髪の毛を自分で剃るのが楽しくなってしまったので、かなり変な髪型で、外に出るときは帽子をかぶっていて、ライブも変な帽子を被って見に行った。
正直帽子が似合うタイプではない、髪の毛も似合わない。
「ワイは帽子も髪の毛も似合わない」と、こないだ、黒木さんのスタジオ配信のときコメント欄に書いていたのだが、それを覚えていたようで、ちょっと突っ込まれて、ちょっと嬉しかった。

 

折り目正しい感じの黒木さんだがライブ中にときどき覚醒したのかという瞬間があり、そのときすごい鋭い目をする。ギラつくというと若干下品だが、整っている黒木さんがああいう目をすると、背筋がびくっとするくらい感動する。頭に刃物を突き付けられている感じ。そういう瞬間も何度かあったなというライブだった。
ひたすらに切実だったんだろうなと思う。
整っている黒木さんは、もがいている姿さえも、美しいのである。

 

秋の日の、なんてことはない日のライブではあるが、5年後10年後に「黒木ちひろさん」のことを思い出すとしたら、この日のライブだったりするんだろうなと思った。
いろんなことは忘れてしまうが、覚えているんだろうな。

自分にとっての過去というのもわりとそういうものだ。

 

まあ、さすがに10年後は自分、生きていないと思うが。

運よく5年後も生きていたとして、このライブのこととか、黒木さんのギラっとした目とかのことを思い出すのだと思う。

 

なんてことはない日のことを、なんてことはないシチュエーションのライブのことを
記憶の断片ではなく「思い出のひとつ」にできる体験は貴重だ。発端は些細な何かが引っかかっているだけなのかもしれない、でも、その時の切実さや感動はずっと思い出に残っていく。

そういうことが少しあれば、生きていける。


余談になるのだが

このような、ひりつくような体験がそこそこ手軽に味わえるので、アマチュアミュージシャンのライブに結構いっていた。しかしコロナ禍とかそういうのがあって、あとアマチュアですごいなと思える人がぜんぜんいなくて、いろいろ疲れてしまっていて、行く頻度も減ってしまった。
まあたぶんアマチュアの側も、たとえば女性だとおっさんしか見に来ないとか、届けたい相手にちゃんと音楽が届けられないジレンマはあると思う。
私という個人は比較的恵まれていて、そこそこ届けたい人に届けられてきていたりもするのだが
なんだろうな、あんまりみんな腐らずに音を出し続けてほしいなとは思う。
私は、ちゃんと、受け取りに行きます。

 

冒頭に書いた友人が今も生きていたらどうなっていたのかなあと考えることはたまにある。絶対にかなわない夢なのだが。
ちょっと引くほどに私の音楽の才能を買ってくれている人だったので、たぶん、今年のテレビ出演なんかも異常な熱量で喜んでくれてたんじゃないかなとか思った。
あれから何度も繰り返した秋、その向こうに凍てつく冬がある。

 

まあ、とりあえず、生きるんでいいと思う。